建国と混乱-太祖から端宗まで
13世紀以来、元の属国となっていた高麗は、元の衰退に乗じて独立を図るが、北元と明の南北対立や倭寇の襲来によって混乱し、混沌とした政治情勢にあった。
1388年、高麗の武将、李成桂は明が進出してきた遼東を攻略するため出兵を命じられ鴨緑江に布陣したが、突如軍を翻してクーデターを起こし、高麗の首都開城を占領、高麗の政権を完全に掌握した。
その背景には、李成桂がもともと反元・親明派であって王命に対する反発があったことに加え、当時行き詰まっていた高麗の政治を改革しようとする新興の儒臣官僚たちの支持があった。
遼東攻撃を不当とした李成桂は、当時の王に対してその不当性を主張し、これを廃して昌王を王位につけた。
この時の李成桂の主張には「小国が大国に逆らうのは正しくない」というものがあり、事大主義だと批判する歴史家もいる。
一方で、当時の高麗の軍事力で明と戦うのは無理であり合理的選択であったと考える見方もある。
こうして、高麗の政権を掌握した李成桂は、親明政策をとり明の元号を使い、元の胡服を禁止し、明の官服を導入するなど政治制度の改革を始めた。
1388年、高麗の武将、李成桂は明が進出してきた遼東を攻略するため出兵を命じられ鴨緑江に布陣したが、突如軍を翻してクーデターを起こし、高麗の首都開城を占領、高麗の政権を完全に掌握した。
その背景には、李成桂がもともと反元・親明派であって王命に対する反発があったことに加え、当時行き詰まっていた高麗の政治を改革しようとする新興の儒臣官僚たちの支持があった。
遼東攻撃を不当とした李成桂は、当時の王に対してその不当性を主張し、これを廃して昌王を王位につけた。
この時の李成桂の主張には「小国が大国に逆らうのは正しくない」というものがあり、事大主義だと批判する歴史家もいる。
一方で、当時の高麗の軍事力で明と戦うのは無理であり合理的選択であったと考える見方もある。
こうして、高麗の政権を掌握した李成桂は、親明政策をとり明の元号を使い、元の胡服を禁止し、明の官服を導入するなど政治制度の改革を始めた。
update:2010年02月22日
